日本の歴史に刻まれた天下分け目の戦いが行われた関ケ原古戦場。
戦国時代の終焉を告げる戦いで、歴史的背景を感じさせる場所として人々を引き寄せています。
それは戦闘の舞台となった地を歩くことで当時の武将たちの思惑・駆け引き・勇気を垣間見ることができ、歴史に思いを巡らせる魅力があるからです。
しかしネットで検索すると出てくるのは武将の紹介や陣跡の解説や多く、車で回るときの行き方や所要時間などの情報はとても少なく心配な状況でした。
特に細い道を入って行く陣跡や近くに駐車場がない場合などは困ってしまうこともあり、情報共有すれば効率的に観光ができると思います。
この記事では、メインスポットの関ケ原古戦場記念館を中心に、関ケ原古戦場の陣跡史跡27ヶ所を車で回ってきたはなはなが以下の内容でまとめています。
- 関ケ原古戦場史跡めぐり地図&駐車場
- 関ケ原古戦場の陣跡史跡観光リスト
- 関ケ原古戦場めぐりに役立つ駐車場
- 東軍・西軍・内通・寝返り軍の陣跡めぐりのポイントと見どころ
- 車行く陣跡めぐりの所要時間と注意点まとめ
この記事を読むことで、訪れる人が詳細な情報を手に入れ、歴史と風景をより深く楽しむ手助けとなるでしょう。
観光時間の限られている人は車を使っでも全てめぐることが難しいので、お気に入りの武将やメインスポットの関ケ原古戦場記念館の近くの陣跡だけでも行ってみましょう。
車で関ケ原古戦場・陣跡史跡をめぐる際に役立つ情報になっていますが、実はレンタサイクルの方が駐車場を気にしなくていいのでオススメだったりします。
「欣求浄土厭離穢土」VS「大一大万大吉」
言葉は違えども理念は同じもの同士、三成が勝つ方法はあったのか? もし三成が勝っていたら? なんて考えるのも面白いでしょう。
現地で撮って来た写真でシェアしますので、岐阜観光のスケジュールにお役立ていただければ幸いです。
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目次
関ケ原古戦場史跡めぐり地図&駐車場
関ケ原古戦場の史跡観光地図
茶色の①~㉗は東軍・西軍の各武将の陣跡や徳川家康最後陣地、決戦地、開戦地、関ケ原古戦場記念館などの主要観光施設になっています。
関ケ原観光協会さんの基本的なルートは、関ケ原古戦場記念館を中心に左回りのコースになっています。
関ケ原観光協会発行の史跡巡りルートマップに番号を合わせてありますので、場所がわかりにくい場合はこちらの地図も合わせて見てくださいね。
紫色の❶~⓬は車で巡る場合に駐車できる施設または駐車場です。
関ケ原古戦場の陣跡史跡観光リスト
①関ヶ原駅前観光交流館
②松平忠吉・井伊直政 陣跡
③東首塚
④岐阜関ケ原古戦場記念館
⑤田中吉政 陣跡
⑥徳川家康 最後陣跡
⑦細川忠興 陣跡
⑧岡山(丸山)烽火場 黒田長政・竹中重門 陣跡
⑨関ケ原古戦場決戦地
⑩島左近 陣跡
⑪笹尾山・石田三成 陣跡
⑫笹尾山交流館
⑬島津義弘 陣跡
⑭開戦地
⑮小西行長 陣跡
⑯宇喜多秀家 陣跡
⑰平塚為広の碑
⑱大谷吉継の墓
⑲大谷吉継 陣跡
⑳脇坂安治 陣跡
㉑小早川秀秋 陣跡
㉒福島正則 陣跡
㉓藤堂高虎・京極高知 陣跡
㉔西首塚
㉕本多忠勝 陣跡
㉖桃配山・徳川家康 最初陣跡
㉗山内一豊 陣跡
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関ケ原古戦場めぐりに役立つ駐車場
- 各陣跡には目の前に大きな駐車場があったり、数台しか停めれない駐車場もあります。
- 1ヶ所に停めて数か所の史跡を徒歩で行ける駐車場もあります。
- 山や丘の上にある陣跡へは駐車場から少し歩かなければいけない駐車場もあります。
- 車の停める場所に困る陣跡・史跡もあるので、迷惑が掛からないように自己責任で駐車をお願いします。
- 紹介している駐車場は全て無料です。
❶関ケ原駅前観光交流館 駐車場(7台)
特に近い史跡はありませんが、
- 観光案内所で情報収集やお土産選びもできます。
- SNSで話題になった武将の家紋ロッカーもあります。
- JR関ケ原駅の目の前にあるので電車で来た場合はまずここですね。
- レンタサイクルも借りられます。
レンタサイクル
利用時間
関ケ原駅前観光交流館:9:00〜17:00(貸し出しは16:30 終了時間までに返却)
※JR関ケ原駅に電車で来た人が便利
岐阜関ケ原古戦場記念館:9:30~17:00(同上)
※駐車場が大きいので車の人が便利
料金
普通自転車
半日(4時間以内)660円(税込)、1日(4時間以上)1,210円(税込)
電動アシスト付き自転車
半日(4時間以内)1,210円(税込)、1日(4時間以上)2,310円(税込)
この駐車場から徒歩で行ける場所(距離)
㉕本多忠勝 陣跡(450m)
※車で行った方が早い、ただし駐車は自己責任で。
❷関ヶ原古戦場記念館 南駐車場(70台)
関ヶ原古戦場記念館は2020年に完成した関ケ原観光の目玉になるスポットで臨場感たっぷりの2つのシアターを楽しめます。
隣接の建物にはカフェ・レストラン・オリジナルお土産ショップが入っているので館内見学後は少し休憩して陣跡めぐりにで出かけてみましょう。
メインの南側駐車場(70台)と北側駐車場(30台)のどちらも無料で利用できるので、近くの観光は車を停めっぱなしで大丈夫です。
この駐車場から徒歩で行ける場所(距離)
- ②松平忠吉・井伊直政 陣跡(350m)
- ③東首塚(300m)
- ⑤田中吉政 陣跡(100m)
- ⑥徳川家康 最後陣跡(200m)
関連記事 岐阜関ヶ原古戦場記念館の見どころは? シアターで歴史の舞台へタイムトラベル
❸関ヶ原古戦場記念館 北側駐車場(30台)
関ヶ原古戦場記念館は南側駐車場の方が広いのでメインに考え、満車の場合のみ北側駐車場を利用しましょう。
繁忙期で両方満車の場合は近くの臨時駐車場を案内してもらえるのでご安心を。
❹岡山烽火場 駐車場(7台)
国道21号線(関ケ原バイパス)の瑞竜交差点にある岡山烽火場案内板の矢印の方へ270m。
バイパス交差点から約270mなので、1台も車とすれ違いませんでした。
丸山のろし場駐車場の看板のところに7台停めれます。
この先は行き止まりなので、帰りは来た道を戻りましょう。
この駐車場から徒歩で行ける場所(距離)
⑧岡山(丸山)烽火場 黒田長政・竹中重門 陣跡(200m)
※上り坂で5分くらい、歩きやすい靴推奨。
❺笹尾山 駐車場
笹尾山の麓に繁忙期でも満車になることはないような大きな駐車場なので好きな場所にどうぞ。
下が砂利なので天気の悪い日は水たまりに注意。
この駐車場から徒歩で行ける場所(距離)
- ⑨関ケ原古戦場決戦地(250m)
- ⑩島左近 陣跡(50m)
- ⑪笹尾山・石田三成 陣跡(200m)
- ⑫笹尾山交流館(150m)
❻笹尾山交流館 駐車場(8台)
来場者駐車場の看板があるので笹尾山交流館専用と考えて、三成の陣跡や決戦地は車を移動するのがマナーでしょう。
はなはなは笹尾山駐車場から歩いて行きましたが、笹尾山交流館・関ケ原古戦場決戦地へは車を移動した方が早いです。
いちいち車を移動するのが面倒だという人は徒歩でOKですし、古戦場決戦地は古戦場記念館からの通り道なので先に立ち寄るのがおすすめです。
関ケ原笹尾山交流館
住所:〒500-8456
岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1167-1
☎:0584-43-1600
営業時間:10:00~16:00
定休日:火曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
おすすめポイント
- 甲冑体験
- 武将の甲冑を選べる
- 草鞋、刀などの付属備品もあわせて貸出
- 甲冑姿で記念撮影
- 甲冑姿で史跡・観光施設の散策
※たとえば三成の甲冑で三成の陣跡へ行く事もできます。
体験料金・支払い方法:現金 PayPayのみ対応
体験時間/90分(受付・着付時間込) ※人数制限有
甲冑 | 金額(税込) | 着付時間(参考) |
子供甲冑 | 1,100円 | 約10分 |
足軽甲冑 | 1,650円 | 約15分 |
侍大将 | 2,200円 | 約20分 |
スペシャル子供甲冑 | 3,300円 | 約20分 |
スペシャル甲冑 | 4,400円 | 約20分 |
プレミアム甲冑 | 5,500円 | 約30分 |
❼島津義弘陣跡 駐車場(数台)
島津義弘陣跡専用駐車場と看板がありますが数台しか停めれません。
この駐車場から徒歩で行ける場所(距離)
⑬島津義弘 陣跡(120m)
国道21号線の松尾交差点から「開戦地」案内板の矢印の方へ700m。
❽開戦地 駐車場
開戦地はこんなとこだったの?というような、のどかな場所にあります。
数十台は余裕で停められる感じです。
しかし東側に目をやると、先制攻撃を仕掛けた井伊隊が近くにいるではありませんか。
井伊直政としてはこれは徳川の戦いであるため、家康4男の松平忠吉の手柄になるなら、先鋒の福島正則を出し抜いてもお咎めなしとの考えがあったのかもしれません。
どうする家康ではどう描かれるか要チェックですね。
この駐車場から徒歩で行ける場所(距離)
- ⑭開戦地(100m)
- ⑮小西行長 陣跡(200m)
国道21号線の松尾交差点から「開戦地」案内板の矢印の方へ700m。
❾大谷吉継陣跡 駐車場(7台)
さすが人気の大谷さん専用駐車場が用意されています。
この駐車場から徒歩で行ける場所(距離)
- ⑱大谷吉継の墓(600m)
- ⑲大谷吉継 陣跡(300m)
国道21号線から信号のない交差点を旧中山道方面へ。
「大谷吉継陣跡」案内板の矢印の方へ180m。
❿福島正則陣跡 駐車場(5台)
駐車スペースは5台分くらいの広さですが、目の前に陣跡があるので回転は早めです。
しかし停め方によってはもっと台数が少なくなるのでここも節度ある駐車を心がけたいものです。
どうしても駐車スペースがない場合は、
- 少し待つ
- 空きスペースに停める
出たい車がある場合はすぐわかるので移動してあげれば問題はないでしょう。
この駐車場から徒歩で行ける場所(距離)
㉒福島正則 陣跡(10m)
国道21号線から斜めに入って行きますが、福島正則陣跡の案内板が2つ目の曲がり角にしかないので少々わかりにくいです。
駐車場の目の前が陣跡で、帰りは来た道を戻らないと狭い道に入ってしまうので要注意です。
⓫松尾山登山口 駐車場(8台)
広域農道から駐車場までの100mくらいの道幅は狭いので、万が一かちあった場合は譲り合いの精神でいきましょう。
陣跡へは遊歩道から片道30~40分程度の山登りが待ってますので、歩きやすい靴と水分持参でのぞみましょう。
山頂には公衆トイレがあります。
この駐車場から徒歩で行ける場所(距離)
㉑小早川秀秋 陣跡(2,900m)
国道21号線の藤下交差点を広域農道方面へ。
約1.3kmで黄色い旗と小早川秀秋陣跡の看板が見えます。
⓬徳川家康最初陣跡 駐車場
国道21号線沿いにあり関ケ原ICからも近いので、行きでも帰りでも都合のいい時間に立ち寄れます。
大きめの駐車場なのでいつでも余裕で停めれるような感じでした。
ただ、徳川家康最初陣地は国道を渡った先にあり、横断歩道もないので自己判断・自己責任でお願いします。
この駐車場から徒歩で行ける場所(距離)
㉖桃配山・徳川家康 最初陣跡
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陣跡巡りのポイントと見どころ
東軍陣跡:徳川家康の陣地と戦術の舞台裏
㉖桃配山・徳川家康 最初陣跡・㉗山内一豊 陣跡
桃配山は関ケ原の主戦場からは少し東に外れ戦況がわかりにくい場所だったり、後方の南宮山の西軍3万が動けばあわや挟み撃ちに合うような場所でした。
しかし家康は関ケ原合戦の朝、壬申の乱の勝者の大海人皇子が陣を敷いた桃配山に陣を敷き縁起をかついだとされています。
「桃配山」は国道21号線沿い中山道の松並木の向かいにあり、大きい駐車場を完備しているので大垣方面から来る人は最初に立ち寄り、関ケ原方面からは最後の締めとして訪れるのがおすすめです。
関ケ原ICからは少し東方で主戦場から離れているので公式パンフレットでは最後の㉖㉗番が振られています。
よく見る関ケ原の合戦布陣図ですが、家康の背後の南宮山には毛利元秀、吉川広家ら約3万の西軍がいました。
ふたを開けて見ると南宮山の毛利軍の抑えにに置いた浅野幸長、池田輝政が力を発揮する事もなく南宮山の西軍は動きませんでした。
その理由は家康との密約があった、西軍先鋒の吉川広家が南宮山からの降り口をふさぐような形で布陣し、毛利秀元は動きたくても動けない状況だったのです。
宰相殿の空弁当(さいしょうどののからべんとう)とは?=肝心な時におかしな言い訳をしてごまかす事
毛利軍の背後に陣取った長宗我部盛親が出陣要請をしてきた使者に毛利秀元が「今は兵に弁当を食べさせているので出陣できないよ~」と苦しい言い訳をしたエピソードで、秀元の官位から宰相殿=秀元の事です。
西軍の総大将として大阪城に入っていた毛利輝元も西軍の敗北を知ると、何事もなかったかのように大阪城を後にしています。
小高い丘の上には合戦時に徳川家康が使用したとされる腰掛石と机石が今も残っています。
合戦当日は霧と小雨で視界が悪かったがそうですが、吉川広家・小早川秀秋らの懐柔策に手ごたえのあった家康は勝利を確信していたのかも知れません。
午前11時ころ、戦況を把握するため三成本陣の笹尾山近くの⑥徳川家康最後陣地まで移動します。
小高い丘の上から家康の見た景色はいかがなものだったのかと歴史のロマンに思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
ここから旧中山道を東に400mほど行くと山内一豊陣跡があり、車が数台駐車できるスペースもあるので車移動でもいいでしょう。
2006年NHKの大河ドラマ「功名が辻」で描かれた山内一豊ですが、家康からの信頼も厚くの南宮山の抑えとして最も本陣に近い位置で旧中山道をふさぐ形で布陣。
その後、南宮山からの攻撃がないとわかると主戦場へ移動し戦いました。
⑥徳川家康 最後陣跡・⑤田中吉政 陣跡
関ケ原のメインの観光スポット岐阜関ヶ原古戦場記念館の隣に位置する徳川家康最後陣地。
正確には最後陣地に建てられたのが古戦場記念館なのです。
家康は午前6時ごろ桃配山に布陣していたが、戦況が把握できないため午前11時ごろ桃配山から関ケ原の中央部、笹尾山の石田三成本陣のからわずか数100mのこの地に本陣を移しました。
一説にはこの場所から一向に動こうとしない小早川秀秋に威嚇の発砲命令(寝返りの催促:問鉄砲)をしたとされる。
ドラマでは決まって登場するシーンではあるが、これは話を盛り上げるエピソードで小早川は初めから西軍に攻めかかっている説が有力です。
まあここから南東の松尾山を見ていただければどれだけの距離があるのかわかると思います。
合戦後この場にて引見が行われ、討ち取ってきた敵の首級が実検されました。
その後、周囲の土塁や中央の土壇を築き土壇中央には「床几場(しょうぎば)徳川家康進旗験馘處」と刻まれた標柱がある。
「勝って兜の緒を締めよ」
この言葉は、勝利を収めた後にも緊張感を保ち、油断しないことの重要性を示唆しています。
家康は兜をかぶって自ら首実検を行いましたが、それは敵将に敬意をう意味もあったのではないでしょうか?
家康は実験した首や亡骸は首塚を造らせ弔い、関ケ原町内には東首塚と西首塚があります。
家康最後陣地の端に田中吉政陣跡の碑があります。
関原合戦図志によれば、田中吉政の合戦時の明確な布陣地は不明ですが、約3,000の兵を率いては石田隊に進軍し笹尾山からの先手兵と衝突。
細川忠興や黒田長政らとともに石田隊を壊滅させ、敗走した三成を長浜の洞窟で捕らえる功績を残す。
②松平忠吉・井伊直政 陣跡・③東首塚
関ケ原駅近くの「東首塚」境内の東隅に「松平忠吉・井伊直政の陣跡」があります。
井伊直政は徳川四天王の1人で、武田から継承した井伊の赤揃え=最強部隊として恐れられました。
松平忠吉は家康の4男で母は於愛(どうする家康では広瀬アリスさん)の方。
井伊直政は、まだ21歳ながら初陣の忠吉が娘婿にあたるので手柄を立てさせたいと考えていました。
東軍の先鋒は福島隊だったが、出し抜いて直政と忠吉は早朝に宇喜多隊に攻撃を仕掛け、合戦の火ぶたが切られます。
終盤、直政と忠吉は撤退する島津隊を猛追しますが両者とも傷を負ってしまいます。
特に直政は鉄砲傷を負い、2年後に亡くなっています。
関ケ原駅近くにある「東首塚」は、広葉樹の森に位置し、徳川家康が関ケ原合戦後に命名しました。
竹中重門が家康の指示で戦死兵士を埋葬し、戦死者数は不明ですが約15万人が戦った戦いの記憶を刻んでいます。
唐門と供養塔は尾張藩7代藩主・徳川宗春に関連する建造物を移築したもの。
⑦細川忠興 陣跡
細川忠興は父・幽斎(藤孝)とともに文化人として名高く、利休七哲の一人でもありました。
家康による会津征伐の際、大坂留守中に三成が家族を人質にしようとしたが、忠興の妻・玉(ガラシャ)はこれを拒絶し自害。
さらに父の守る田辺城は包囲され、忠興の三成に対する怒りはMAXに。
細川ガラシャは明智光秀の三女(玉)で「麒麟がくる」では芦田愛菜さんが演じておられました。
当日は5,000の兵を率い、岡山烽火場の麓南に布陣。
竹中重門・黒田長政隊と共に笹尾山の石田隊を攻撃、壊滅させ首級130余りを挙げたという。
忠興は「越中頭形兜」を被り、その姿は合戦図屏風に描かれています。
陣跡は古戦場記念から約450mの場所。
道幅も広く駐停車禁止エリアではないため、写真を撮るくらいなら停めても問題ないと思われます。
だだし民家が近くにあるので騒いだり、曲がり角から5m以内は駐車しないように。
徒歩でも行ける距離だが車なら2分だ。(ただし自己責任で)
⑧岡山(丸山)烽火場 黒田長政・竹中重門 陣跡
国道21号線(関ケ原バイパス)の北側に位置する小高い山が、古戦場記念館の展望室からも見える岡山(丸山)烽火場 黒田長政・竹中重門 陣跡です。
駐車場に車を停めて竹林を抜け坂道を歩くこと5分くらいで行けます。
岡山(丸山)は南宮山・松尾山・笹尾山・中山道・北国街道・伊勢街道など、合戦の重要な地点を一望できるので合戦時の戦況が把握しやすかったのです。
山頂からは周辺の状況を把握して開戦の合図として烽火を上げました。
黒田長政と竹中重門は、おさななじみで黒田官兵衛と竹中半兵衛の嫡男ペアなのです。
さすが名軍師の子だけあっていいところに陣取りますね~。
ちょっとまって、秀吉が頼りにした2大軍師である黒田官兵衛と竹中半兵衛の子供たちが東軍とは???歴史のロマンを感じますね~。
気になった人はちょっと調べてみては?
㉒福島正則 陣跡
「春日神社」境内に福島正則陣跡があります。
福島正則は秀吉子飼いの血気盛んな若武者で賤ヶ岳七本槍のひとり。
しかし関ケ原の戦いでは東軍に参加、その理由は三成への憎しみ。
東軍先鋒であったにもかかわらず、井伊直政に抜け駆け開戦され、ブチ切れて目の前の宇喜多隊に襲いかかったことは想像に難しくありません。
境内の樹齢800年の「月見の宮大杉」は合戦図屏風にも描かれ、合戦目撃しただけあって貫禄があります。
㉓藤堂高虎・京極高知 陣跡・㉔西首塚
藤堂高虎・京極高知陣跡は、なんと関ケ原中学校敷地内にあるのですが、公式パンフレットにも入ってはいけませんと書いてないので写真撮影させていただきました。
藤堂高虎は秀吉に取りたてられた豊臣系武将ですが、福島正則と同じく家康に乗り換えた1人。
東軍での功績は大きく小早川秀秋・脇坂安治・朽木元綱らの寝返り工作も行っています。
京極高知も秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)には岐阜城攻めに参戦。
関ヶ原の戦いでは平塚為広ら大谷吉継隊に対して藤堂高虎と共に戦うなどの戦功を挙げています。
校門前の民家の隣に数台駐車できますが気になる人は関ヶ原中学校の駐車場をお借りするのがいいでしょう。
休日でも校門が空いているのは、おそらく観光客用に開放していると思いますが、平日の場合は授業に差し支えないように、また生徒に注意を払って駐車するのがマナーです。
※ただし校門が閉まっている場合は勝手に入らないようにしましょう。
竹中重門が徳川家康の指示で、関ケ原の戦いで亡くなった兵士たちを埋葬。
高さ2mの塚でJR東海道本線敷設時に多くの白骨が出土したことから、その規模がうかがえます。
別名「胴塚」とも呼ばれ、東は東軍・西は西軍の首塚説もあります。
西首塚は国道沿いで車を停めるスペースもなく、藤堂高虎・京極高知 陣跡から徒歩で行くのがベストです。
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㉕本多忠勝 陣跡
どうする家康では徳川四天王の人気武将の本多忠勝を山田裕貴さん演じているので、ますます本多忠勝が好きになった人もいるでしょう。
関ケ原では軍監を命じられており、500人の少数精鋭部隊を指揮ししていました。
本多忠勝の陣は最前線ではなく、どちらかというと真ん中後方、家康の最初陣地に近い前方と言った場所。
開戦当初は動かず南宮山の毛利隊の警戒に当たっていたようですが、終わってみれば90もの首級を挙げる大活躍でした。
陣跡は民家が密集した県道56号の西公門から北に入った場所。
人気武将なのに駐車場がないので困ったものだ。
陣跡の看板と本多の旗印を頼りに民家の隣の狭い路地を入って行った突き当りで非常にわかりにくい場所にあった。
※まちがって民家の庭に入って行かないように要注意です。
目の前にホームセンターがあるので何か買い物して駐車場をお借りするという手もある。
反対側に停めていいのかわからない砂利の広場があるので自己責任でどうぞ。
歩いて行くならJR関ケ原駅前の関ケ原観光案内所の駐車場からから約500mです。
西軍陣跡:石田三成の本陣跡と壮絶な戦闘の舞台
⑪笹尾山・石田三成 陣跡・⑩島左近 陣跡・⑨関ケ原古戦場決戦地
決戦地の北西にある小さな山、笹尾山には石田三成陣跡の碑があります。
笹尾山頂からは古戦場全体が一望でき正面には家康の桃配山、西軍の宇喜多秀家の南天満山、小早川秀秋の松尾山、そして毛利秀元の南宮山と東軍を囲む鶴翼の陣(かくよくのじん)を取りました。
本陣手前に配置された島左近は「三成に過ぎたるものが二つあり島の左近と佐和山の城」と言われたほどの猛将。
合戦時の竹矢来や馬防柵が復元され、敵の攻撃から防御された場所でした。
三成は島左近を竹矢来の前に配置し、山頂から指揮をとったとされています。
三成の陣跡を見るために笹尾山山頂を目指します。
といっても数分で登れますのでご安心を。
大一大万大吉の旗印展望台が見えてきました。
旗印の意味は「1人が万民のために、万民は1人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」ということです。
そんな素晴らしい理念を持っていた三成ですが、聞こえてくるのは「嫌われ者」という言葉です。
職場にたまにいる、頭は切れて仕事きっちり、上司にペコペコ、小言チクチク報告しちゃうよ、っていう人。
そりゃ秀吉亡き後の政権・豊臣家は、そんな人望の無いやつに任せられないぜってことですね。
秀吉にとても世話になっていても東軍についちゃう武将がいるのもうなずけます。
しかし、近年は豊臣家だけのために生涯をつくし、全ては豊臣家のためだった三成の生き方が見直されてきています。
少々言葉足らずで、人付き合いが苦手で、回りの空気が読めない人だったのかも知れませんね。
総兵力では東軍を上回っていた西軍ですが、まわりを抱き込む力は家康の方が上回ったようです。
秀吉への忠誠を貫いた三成でしたが、わずか1日で敗走することになります。
笹尾山を背に田園が広がる場所に「決戦地」があり、大きな石碑や家康・三成の家紋入りの旗、ベンチの休憩所があります。
奥に笹尾山の三成陣跡が見えますが直線距離にして約300mといったところ。
首級を奪い合う激しい戦いが繰り広げられたが、西軍の負けが濃厚になるとたまらず三成は敗走。
田んぼの真ん中にあるので駐車場はありませんが、車を停めるスペースはたくさんあります。
三成の陣跡駐車場から250m、笹尾山交流館駐車場から180mなので徒歩でも行けますが、古戦場記念館方面から三成の陣跡に移動する途中にあるので先に立ち寄るのがおすすめです。
⑬島津義弘 陣跡
笹尾山・石田三成陣跡から南に800m下った神明神社の森に広がる島津義弘 陣跡。
島津義弘は西軍のほぼ中央に1,500の兵を率いていました。
兵が少ない理由は、義弘の兄義久が秀吉の朝鮮出兵でこき使われており、豊臣系の三成に積極的に協力するつもりがなく増援要請に応じなかったためです。
島津隊というよりは義弘隊というのが正解でしょう。
三成の中では島津隊は主力級の兵数と思っていたのがあてが外れ、兵の少なさに怒り軍議では義弘に対して軽く扱う対応をしたようです。
開戦しても三成への不信感から島津隊は動きません。
使者が来ても下馬しなかったことに無礼として追い返します。
やがて三成自身が説得に来るも「本日はめいめい勝手に戦うものと心得ており申す」といって相手にしません。
やがて西軍はちりちりになり三成は長浜方面へ敗走。
気が付けば島津隊は戦場の真ん中に取り残される形になっていました。
敵に背を見せて逃げるは武士の恥と、島津隊は敵中突破の前進退却を果敢に行い多くの犠牲を払いながらも義弘を薩摩に帰国させる撤退戦を成功させました。
東軍の追撃は捨て奸(かまり)で応戦。
これは退却する途中で小部隊を留め置き、追ってくる敵と死ぬまで戦って足止めし、本隊を逃がす壮絶な戦法なのです。
このいかれた戦法は「島津の退き口」と呼ばれ、家康に島津の強さ、恐ろしさ、忠義に厚い家臣団を見せつけることになりました。
島津はもともと東軍で参加したかったことや、遠い薩摩に出兵するにはリスクが大きいため、戦後処理もほとんどお咎めなしの特別待遇でした。
皮肉なことに240年後に討幕の原動力に島津藩がなるとは家康もびっくりでしょう。
⑮小西行長 陣跡・⑭開戦地
東軍先鋒の福島隊を出し抜き、脇から宇喜多隊へ発砲した井伊隊。
遠くに見える笹尾山に陣取った三成からは、火ぶたが切られた合戦にの状況がよく見えたのではないでしょうか?
北天満山の裾野を流れる梨木川右岸にある、西田公園付近が小西行長陣跡です。
関ケ原合戦が始まるとともに、北天満山から烽火(のろし)をあげて味方に開戦の合図をしました。
小西行長は三成らと共に斬首されましたが、キリスト教信者だったので改葬はキリシタンの手によりカトリック方式でとり行われたとされています。
⑯宇喜多秀家 陣跡
南天満山の麓、道路にある天満神社の碑から約250m森の中を入った場所に宇喜多秀家 陣跡があります。
案内板には大谷吉継墓1.3kmとありますが❾大谷吉継陣跡 駐車場から行った方が近いので参考に。
元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。
豊臣政権下の五大老(徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家)の一人で、この付近に兵約1万7,000という西軍の主力部隊を布陣し、副総帥として参戦しました。
目の前には秀吉子飼いの武将福島正則が陣取り、お互いに先鋒を任された陣であるため一番激しい戦闘が繰り広げられたのは想像がつきます。
合戦後は島津を頼りに薩摩へいくも、やがて家康に身柄が引き渡されるが島津氏・前田氏の懇願により八丈島へ配流となる。
享年84歳、八丈島で生涯をすごし関ヶ原に参戦した大名としては最も後まで生きています。
国道21号線の松尾交差点から約450m付近に天満神社の碑があるのでその辺りに駐車して森に入って行きましょう。
この辺りの路は対向車がすれ違えるので短時間であれば特に問題はないでしょう。
⑲大谷吉継 陣跡・⑱大谷吉継の墓
大谷吉継 陣跡は、若宮八幡宮の急斜面にあります。
陣跡へ行くには東海道本線の踏切を越えて登っていきます。
山道ですが駐車場から10分程度で行くことができます。
大谷吉継は初めから小早川秀秋を疑っており、松尾山に布陣した小早川に備えて若宮八幡宮近くの急斜面に急きょ陣を張ります。
ビューポイントからは松尾山の小早川陣跡がよく見えます。
大谷隊も襲い掛かってきた小早川隊15,000人に対して善戦しますが、松尾山麓で様子見をしていた脇坂安治、朽木元綱・小川祐忠・赤座直保も小早川の攻撃を見て寝返ったため壊滅。
人気武将大谷吉継墓はさらにそこから310m奥へ進んだところにあります。
一説に吉継は首を見つからない場所に埋めさせたと側近に伝え自害したといわれているので聖地とされるのもうなずけます。
三成の親友であった吉継は、無謀な戦いとわかりつつも三成への「義」を貫いたところが歴史ファンの人気武将です。
陣跡、墓は山中にあるにもかかわらず訪れる歴史ファンも多く墓には花が手向けられています。
少し山に入って行きますので明るい時間に訪問するように時間調整しましょう。
⑰平塚為広の碑
平塚為広は関ケ原の隣の垂井城城主であったため合戦では盟友大谷吉継の加勢にいち早く参戦。
三成に義を貫く大谷と同じ考えで、為広も大谷に義を貫いた武将。
病身の大谷の前衛に布陣し小早川といち早く激突し善戦むなしく散っていきました。
平塚為広の碑の前は駐車スペースはありませんが、そこから北へ80mほど行ったところに大谷吉継墓470mの案内板があります。
その辺りなら路肩に駐車スペースがあるので利用しましょう。
内通・寝返り軍陣跡:小早川秀秋は裏切り者ではない
㉑小早川秀秋 陣跡
小早川秀秋は当時19歳の若者ながら1,5000の兵を率いていたので、意外としっかりしていたのではないでしょうか?
開戦後もビビッてどちらで参戦するか迷っていたところに、家康の問鉄砲が飛んできて東軍に寝返ったというドラマでもよく見かけるシーン。
裏切り者の小早川のせいで西軍が負けたと思う人も多く、ちょっとかわいそうですよね。
近年は東軍と内通しており開戦時から山を下り大谷吉継隊に襲い掛かっていたという説もあり、はなはなはこちらがしっくりきます。
小早川秀秋が陣を張った標高293メートルの笹尾山には、複数の曲輪や堀の遺構が残り山城だったことがわかっていますので、興味のある人はハイキングに行ってみましょう。
また自分なりに当時の小早川の気持ちになって景色をみるのも歴史好きの醍醐味かも知れません。
駐車場からはひたすら遊歩道を登っていきます。
普通の観光客は登らないですが、小早川ファンなら聖地ですね。
往復60~70分くらいは見ておきたいところなので、ゆっくり景色を楽しむなら90分は見ておきましょう。
はなはなは時間の関係で次回に持ち越しました。
ここも1人ではさびいしいので明るい時間に訪れましょう。
⑳脇坂安治 陣跡
車で陣跡めぐりをしていて一番困ったのが脇坂安治 陣跡です。
近くに駐車場がなく、付近の道路も車がすれ違える幅がない細い道がずっと続きます。
こんな道路で路駐するわけにもいかず、一度はスルーしようかと思いましたが、広い道まで引き返してきました。
名神高速道路の高架下の藤古橋辺りは近くに公衆トイレもあり、多少駐車スペースがあるので短時間なら大丈夫そうです。
脇坂安治は、豊臣秀吉と柴田勝家が激しく戦った、賤ヶ岳の戦いで手柄を立てた「賤ヶ岳の七本槍」の一人。
賤ヶ岳の七本槍のメンバーでは、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰は東軍として参加。
脇坂安治も事前に藤堂高虎と内通して東軍で参戦することになっていましたが、背後の松尾山に陣取った小早川秀秋15,000の様子が気になります。
小早川隊が大谷隊に襲い掛かると勝ち馬に乗り東軍として戦いました。
まとめ:車で行く陣跡めぐりのポイント
駐車場があって歩いてすぐ行ける史跡
②松平忠吉・井伊直政 陣跡
③東首塚
⑤田中吉政 陣跡
⑨古戦場決戦地
⑩島左近 陣跡
⑬島津義弘 陣跡
⑭開戦地
⑮小西行長 陣跡
㉒福島正則 陣跡
㉖桃配山・徳川家康 最初陣跡
㉗山内一豊 陣跡
車で観光するのに何も問題がありません、ただ繁忙期は小さい駐車場は満車の場合があります。
各所要時間は5~10分あれば見て解説を読んで写真を撮れますので当ブログを参考に駐車場へ向かいましょう。
駐車場は無いがなんとかなる史跡
⑥徳川家康 最後陣跡
⑦細川忠興 陣跡
⑰平塚為広の碑
⑳脇坂安治 陣跡
㉓藤堂高虎・京極高知 陣跡
㉔西首塚
㉕本多忠勝 陣跡
駐車場はありませんが、この記事で車の停め方や場所を解説しているので参考にしてみてください。
ただし駐停車禁止の標識がなくても駐車は自己責任でお願いします。
各所要時間は5~10分程度です。
駐車場があっても行くのに時間がかかる史跡(所要時間)
⑧岡山(丸山)烽火場 黒田長政・竹中重門 陣跡(20分)
⑪笹尾山・石田三成 陣跡(15分)
⑯宇喜多秀家 陣跡(20分)
⑱大谷吉継墓・⑲大谷吉継 陣跡(40分)
㉑小早川秀秋 陣跡(90分)
陣跡が山や丘にあるので車を停めてから往復に時間がかかります。
観光時間込の往復最短は⑪笹尾山・石田三成 陣跡で往復15分くらい、最長は㉑小早川秀秋 陣跡で往復90分くらいです。
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